気持ちの引き出し

ゆるく自由に気ままに生きるための公開日記

そこそこ勉強のできる人見知りって損じゃないかって話。

勉強がそこそこできる子はプライドを捨てられない

 

私はそこそこ勉強できる子だった。小中高とごく普通レベルの学校だったので、私の成績はトップクラスであり、チヤホヤされてきた。先生に褒められ、友達に羨ましがられた。難関校にはもっと頭の良い人がたくさんいて私なんて井の中の蛙であることは承知していたつもりだったが、それでも自分が校内で上位にいられることが嬉しかったし、上位にいることは私のプライドであった。大学受験も順調で、そこそこなレベルに進学できた。大学へ行ってしまうと、周りも当たり前のように頭が良く、私より頭の良い人なんてザラにいた。大学内では私はごくごく普通の平凡な学生であった。しかし、大学外の人に対しては私は〇〇大学であるというプライドはあった。社会的上位にいるんだという優越感があった。

 

学校では勉強できる子がチヤホヤされるが、

社会ではチームを動かせる人が求められる

つまり勉強のできる人見知りは…

 

私は人見知りである。大学でサークルもアルバイトもしたけれど、人見知りな故に他人を引っ張ってなにかを成し遂げるなんてしたことがない。仲間たちとの議論でさえ、言葉に詰まる。前に他の記事(無口のやつ)で書いたように、人見知りとはいえ、いざって時は気合を入れれば話せる。でも普段はやっぱり無口だ。

 

そんな私が就活をしたらどうなるだろうか。面接では学生時代に頑張ったことを聞かれ、その話題はチームなどで人を巻き込んだ経験が好まれる。しかし、人を巻き込むなんて人見知りには難しい。とりあえず参加し、みんなと同じことをするだけで精一杯だ。さらに、グループディスカッション選考もある。仲間と話すのも精一杯なのに、初めての相手とその場で出された議題で即興で議論するなんて高度である。

 

もちろん人見知りなりに気合いを入れて頑張った。サークルは交友を広められるようなものにも入ったし、アルバイトは面接で数回落とされたが無事見つけた。留学もして、留学先では学外でも色々な活動に参加した。面接では声が震えながらも元気に挨拶し、数少ないエピソードを使ってなんとか話した。グループディスカッションも1回目はひと言も発することができなかったが、議論の進め方のパターンを予習したり、何回も実践を積んで上手い人の発言から学び、徐々に選考通過できるようになった。後半は進行を務めることさえもあった。

 

こうして頑張ったつもりだが、就活ではたくさんの選考に落ちてしまった。そもそも人見知りを克服するために頑張るなんて当たり前で、人見知りじゃない人と同じスタートラインに立っただけだ。受かるにはさらにその先の努力をしなきゃいけないのだ。人見知りは2倍の努力が必要だ。でも私はそれができていなかった。だから大手企業からは内定は貰えなかった。しかし、大学の友人知人は大手企業などに多く就職している。(もちろんそうじゃない人もいるけどね。) 高校までの友達には「大手受かった?」と期待交じりに聞かれる。さらには、大手以外のとこの人事に「あなたの学歴でうちは勿体無いよ。本当に良いの?」と聞かれる。これが地味に辛いのだ。別に今の就職先にそんな不満があるわけではない。でも大手に行くような素質がなかったという事実を認めたくない自分がいて、大学受験まで上位にいたという捨てきれないプライドが邪魔をするのだ。大学受験まで上位だったからこそ、就職でも上手くいくんだろうと周りから思われているし、自分も少し期待していた。〇〇大学なのにそんなところで働いてるのかと周りから思われるのが怖いし、何より自分がそう思ってしまう。こんなんだったら勉強できない方が変に周りから期待されず、自分も期待しなくて済んで良かったのかなとさえ思ってしまう。勉強しなきゃよかったな、高卒で就職すればよかったなと思ってしまう。

 

東大に楽々入ってしまうようなずば抜けて頭の良い人なら、頭の良さで勝負できるかもしれないが、こんなそこそこ勉強のできる人っていうのは中途半端で武器にもならないし、期待だけされて損だなと思ったという話。