気持ちの引き出し

ゆるく自由に気ままに生きるための公開日記

君の膵臓を食べたいを見に行ったネタバレな感想。

 最初に

「君の膵臓を食べたい」という映画を昨日見に行った。本屋大賞で話題になっていたのは知っていたけど、小説を読んだことはなく、あらすじも知らなかった。以前友達と出かけた時にたまたまポスターを見かけていて、昨日再びその友達と遊んだ時に時間が余って急遽見ることにした。こんな感じで見に行ったけど、いろいろ思い出して考える映画だったので、印象に残った内容と思ったことを書き残しておく。

 

「出会ったのは偶然でもなく運命でもなく、自分たちの意志を持った選択のおかげだ。」的な内容の咲良のセリフ

私は中学生の卒業文集で似たようなことを書いた。もし自分が他の中学を選んでいたら同じ中学にはならず、皆には出会えなかった。他の皆も私と同じ中学を選ばなかったら、私には出会えなかった。もし他の人生を選んでいたら他の友人がいて、それはそれで楽しかっただろう。でも実際には私はこの中学を選んで、友人ができた。その友人関係の中で今の自分がいる。だからこうして出会えたことを大切にしたいし、自分に自信持ちたい。中学生の私は出会いを「奇跡」と表現したけれど、言いたかったことは同じだと思う。

今の私はやりたいことも分からないままとりあえず大学へ行った。親も行かせる気だったし、周りも皆受験するから、それが当たり前だった。だからレールの上に乗っかって流されているだけのような気がしていた。でも周りがなんであろうと、結局は大学へ行ったのは自分が選んだ道なんだなって思った。

 

咲良が病気のせいではなく、事件に巻き込まれて命を落としたこと 

誰もが今日、明日、命を落とすかもしれない。余命わずかだからって、その短い余命を全うできるとは限らない。事故や事件、災害で亡くなるかもしれない。寿命で亡くなる人だって、いつが寿命かなんて分からない。いま健康な人だって、いつ病気になるか分からない。余命だって、いつが余命か正確には分からない。

それにしても、彼女の死は突然すぎて、衝撃だった。そして、私はある人の死を思い出した。その人も突然いなくなった。命って大切だって言うけれど、すごく呆気なく消える。当然また会えると思っていた人に会えなくなった。自分も含め、皆が生きていることは当然じゃなかった。今日一緒にいる人が明日も生きてる保障はないと知った。咲良が亡くなったことが可哀想と思うよりかは、命の儚さを突き付けられて悲しくなった。

 

咲良が春樹に、春樹が咲良に憧れていたこと

人気者の咲良は他人との関わりの中で生を実感する。だから周りと関わらずに1人でも自分を持っている春樹に憧れがあった。春樹は逆に人を認めることのできる咲良に憧れがあった。2人とも互いに自分に無いものに憧れていた。私もそうだ。自分が楽観的でテキトーで行き当たりばったりで面倒くさがりだから、計画的で目的をもって一生懸命にコツコツ打ち込める人を尊敬する。逆に真面目で心配性な人は、なんだかんだテキトーにゆるく生きる私を羨むのかもしれない。皆それぞれ良さがあるのに自分が気づいていないだけ。昨日も友人が皆のこと(私も含む)を尊敬すると話していて、自分が尊敬されていることに驚いた。もっと自分の個性を信じてみようかなと思った。

あと、人は人との関わりで生きてるんだと思った。咲良のように周りと触れ合って自分を感じる人もいる。春樹のように1人でいるっていうのも周りがいるからこそ1人だって認識できる。人気者がいるからこそ、自分は友達のいない地味なクラスメイトだって感じる。

 

最後に

わざわざ書き残したことからも分かると思うけど、この作品は見て良かった。急遽見に行ったのも偶然のようで実は「選択」だったんだなって思った。たまたまニュースで本屋大賞を知っていたのも、カラオケ店でポスター見て話題にしたのも、昨日時間が余ったのも(実は夕方からセミナー行く予定入れようか迷ってたけど、テレビの占いで予定の詰めすぎは良くないって言っててやめていた。)、じゃあ映画を見ようとなったのも、私たちの選択だ。もしこのブログを見る人がいれば、それも私が書くと決めた選択とこの記事をクリックした選択による出会いなんだろうね。